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マラリアとアフリカの子どもたち(Malaria Toll on Children)

日本のマラリア

かつて日本では、明治時代~昭和初期の日本では、全国でマラリアが流行し多数の感染者を出しました。日本では古くからマラリアは、「おこり(瘧)」と呼ばれており、日本史上も様々な人物がマラリアと思われる病気で、命を落としたことが分かっています。

日本のマラリアにかかったと考えられる歴史上の人物
■光源氏:
紫式部が描いた「源氏物語」主人公の光源氏も、マラリアに苦しみました。「若紫の巻」で光源氏が紫の上と出会うきっかけも、「わらはやみ」、つまりマラリアの治療で都を離れたことに遡ります。
■平清盛:
平安末期、鎌倉時代に入る前に、政権を握った平清盛の死因もマラリアと考えられます。「平家物語」には、比叡山の霊水で清盛の身体を冷やしたところ、たちまち熱湯になったと記述されていますが、清盛の熱病死の症状は、マラリアと言われています。

マラリアは、近世にはいる前、多くの文献でその症状が記されていますが、近世になると、その深刻さは減少します。その原因としては、以下の点が挙げられています。

●近世の日本列島は古代に比べて気温が全般的に低下したと考えられ、それがマラリアの抑制につながったことが推測されます。

●医療の発展により、熱病の治療が行われ、その結果、マラリア事情が好転したと考えられます。

しかし、明治に入り、マラリアという名称がつかわれるようになった時期、日本が世界各国と交流し、またアジア諸国に進出するようになると、状況は変化します。

一般にマラリアは戦争時・戦争直後に大流行する傾向がありますが、日本でも例外ではなく、第一次世界大戦・第二次世界大戦でもマラリアの流行が起こりました。

■全国での発生状況

●北海道
明治時代以降の北海道の開拓に支障を来しました。
例えば、明治24年、日本の女医第1号として有名な荻野吟子の夫としても知られる志方之善が、キリスト教信者たちと理想郷を作るために、瀬棚で開拓を進めました。この計画が挫折した理由としては、原生林の伐採の遅れによるマラリアの発生でした。

●本州
琵琶湖を中心として、福井、石川、愛知、富山でマラリア患者数が多く、福井県では大正時代は毎年9000~22000名以上のマラリア患者が発生、1930年代でも5000から9000名の患者が報告されていました。その他、東北地方でもマラリアの症状が見られるなど、その発生は全国で見られました。

●沖縄
八重山諸島にはマラリア感染地域があることが知られ、琉球王朝の時代から強制移民と廃村が繰り返された歴史があります。
第2次世界大戦中には戦争マラリアと呼ばれる大量感染の記録があります。

■第二次世界大戦期

日中戦争~第2次世界大戦中の日本においても、ある程度、マラリア対策が行われました。 しかし、昭和14年以降、全国各府県(北海道を含む)でマラリア患者の発生をみない地域はなく、特に、福井県・滋賀県・愛知県・富山県・石川県では、患者の発生数が多かったとされています。
さらに、太平洋戦争では南方のジャングルに長期滞在する兵士が多かった為、マラリア患者が続出しました。米軍は厳重なマラリア対策を行っていたがそれでも患者は多かったとされています。
戦争中、日本軍はほとんど対策をとっておらずガダルカナルでは1万5000人、インパール作戦では4万人、沖縄戦では石垣島の住民ほぼ全員が感染し3600人、ルソン島では5万人以上がマラリアによって亡くなりました。補給軽視により栄養失調状態になりながらマラリアにかかる者が多かったため、一度かかると殆ど助かる見込みはなかったと言われています。

作家大岡正平が自らの戦争体験をつづった連作小説「俘虜記」でも、戦争中、マラリアにかかり、捕虜になったのち、薬によって回復したことがつづられています。

■戦争マラリア

第二次世界大戦時、沖縄県において疎開した一般住民がマラリアに罹患して多数が死亡したことを指す言葉。波照間島では集団罹患が発生しました。

沖縄県の八重山諸島では古くからマラリアの発生する地域がいくつかあることが知られています。特に石垣島の北側(裏石垣)と西表島はその意味で恐れられた地域である。現在ではマラリアは一掃されていますが、第二次世界大戦時にはまだ発生地域は多かったとされています。

第二次世界大戦時、沖縄本島周辺では非常に激しい戦闘が行われましたが、八重山諸島においては、一部地域でマラリアの発生する地域へ住民の疎開が行われ、雨露がやっとしのげる茅葺き小屋、不十分で不衛生な共同便所などでの共同生活を余儀なくされたために、多くの人がマラリアに罹患し、全人口の半数を上回る1万7000人がマラリアに罹患し、3000人が亡くなりました。

これが戦争マラリアと呼ばれる所以です。

マラリアは戦争中の物資や人間の移動、栄養状況の悪化から県内の他地域にも広がり、沖縄県各地で被害者を出しましたが、八重山では直接の戦争被害よりマラリアの被害が突出しました。八重山では、この戦争マラリアを忘れないために、「八重山平和祈念館」で、戦争マラリアのことを紹介しています。

■第二次世界大戦後~現在

戦後、マラリアは、全国で流行しました。1946年のマラリア患者数は統計上だけでも28210人。法廷・指定・届出伝染病28種のうち、赤痢、ジフテリア、腸チフス、発疹チフスに次いで患者数は第5位を占め、人口10万人対する罹患率は36.8パーセントに上ります。

流行自体は1946年をピークに減少し、翌1947年の罹患率は15.1パーセントとなりました。この数字は、2008年度のインフルエンザの罹患率は6パーセントであることを考えると、非常に高い数字であることが分かります。ただし、この時期の患者の多くは、戦後、帰国してマラリアを持ち帰った10万と言われる元兵士の方でした。

1950年代にマラリアは収束し、1960年代には数えるほどの患者数となります。1980年代以降のマラリアの症例は、外国でマラリアに感染し、日本に帰国してから発症する例、いわゆる輸入感染症が年間100~150例程度報告されています。

現在マラリアが日本で流行していない理由
・マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化や稲作法の変化などによる発生数の減少
・日本の住宅構造や行動様式の変化による、夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなど

参考:橋本雅一『世界史の中のマラリア:一生物学者の視点から』(藤原書店、1991年)

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